朝倉遺跡には、石組などが朝倉時代当時のまま発掘された庭園遺構が数多く残っています。
城主またはその一族の代表的な庭園としては、国の特別名勝にも昇格指定(平成3年5月)されている諏訪館跡、湯殿跡、義景館跡、南陽寺跡の4庭園のほか、中の御殿跡庭園があります。いずれも、庭池を備えた比較的大きな林泉式庭園で石組や配石を重視しており、山裾に山地を背景に造られています。この庭園様式は、室町時代末期の庭園の特徴をよく伝えているともいわれています。
この一乗谷で、急峻な山麓を利用した立体的石組の林泉庭園が生まれたのは、素朴で古さびた巨石(凝灰岩礫岩)が山地で豊富だったことなどが影響しているようです。このページでは城主またはその一族の代表的な庭園を紹介しています。
一乗谷で規模が最も大きく豪壮華麗な庭園といわれる諏訪館跡庭園
一乗谷の中で規模が最も大きく豪壮華麗な庭園といわれる諏訪館跡庭園は、朝倉義景の側室「小少将」の館跡と伝えられる諏訪館跡にあります。朝倉遺跡の湯殿跡、南陽寺跡、義景館跡の3庭園とともに、「一乗谷朝倉氏庭園」の名称で国の特別名勝に昇格指定(平成3年5月)されています。
同庭園は立体的な庭石組を主体に山裾に造られた林泉式庭園です。上段と下段があり、上段は東側にある低い土塁状の斜面を背に、小規模な滝石組と銀閣寺庭園(京都)上段の湧泉石組に似通った石組で構成されています。導水路を通じて取り入れられた谷川の水が上段の滝石組を通り、さらに下段の落差3mの滝石組に勢いよく流れ落ちるように造られています。また、下段中央の滝副石に4m余の巨石を配するなど、全体として豪壮な石組は戦国大名の気風をよく表しており、石組や配石を重視した室町時代末期の庭園様式をよく伝えているという。
一方この庭園は、専門の庭師が当時流布していた作庭書に基づき作庭したといわれており、作庭時期は義景が小少将を側室にした永禄11年(1568)頃と考えられています。諏訪館跡庭園の写真は晩秋に撮りましたが、紅葉だけでなく、付近に咲くサンザンカも綺麗だったのが印象的です。
一乗谷で最も古い庭園とされている湯殿跡庭園
一乗谷で最も古い庭園とされている湯殿跡庭園です。池は南北に細長く、汀線が複雑に入り組んだ形をなしています。荒々しく豪快な石組、林立する苔むした立石群の力強さに圧倒されそうです。一方では戦国時代の気風を感じるような思いも。石組は全体として自由奔放になされているようにも見えますが、最良の観賞地点は西側の1ケ所に求められるという。ただ、今は枯池となっています。しかし戦国時代には、池の背後に導水路があることから、澄みきった水を湛えていたと考えられています。
最良の観賞地点が西側1ケ所といわれていますが、晩秋の紅葉を入れて撮りたかったので、南西側と北側からそれぞれ撮ってみました。
足利義昭の御成りに備えて造られたという義景館跡庭園=日本最古の花壇
永禄10年(1567)の足利義秋(義昭)の御成りに備えて、急きょ造られたといわれる義景館跡庭園は、館内の東南斜面を背景に造られ、山裾の園地を中心とした部分と、それから西の方に続く中庭で構成されています。園地は小規模で浅く、底には平らな川石がびっしりと敷き詰められており、池水は同斜面高地からつづら折りに流れ落ちる導水路を通じて取り込んでいます。池のまわりは大小さまざまの庭石で護岸されていますが、その中の一部は建物の礎石を兼用していることから、数奇屋(茶室)や会所と一緒に造られたと考えられています。
中庭は、館内最大の建物で城主の日常生活施設である常御殿をはじめ、主殿や会所、数奇屋の接待用各施設に囲まれ、取り外し可能な塀の仕切りを境に、枯山水平庭部と花壇部に分かれています。枯山水平庭は横7.8m、幅3.75m、数奇屋座敷から西側に縁を介して造られており、小砂利が敷かれ、伏石がバランスよく配置されています。
さらにその西側には、取り外し可能な塀の仕切りを境に、日本最古とされる花壇があります。その花壇は常御殿に平行に横長に配置されていることから、主として常御殿からの観賞目的に造られたと考えられています。花壇は幅9・8m、奥行き2.8m、その中には、自然石を2個並べた幅45cmほどの管理用通路が設けられています。そこには戦国時代、キク科やユリ科、アブラナ科の植物の花が咲いていたそうです。
足利義昭を招き歌会を催したと伝えられる南陽寺跡庭園
義景館跡から200m東北の山麓高台にある南陽寺跡庭園は、義景が永禄11年(1568)の春、足利義秋(義昭)を招き、爛漫と咲き誇る糸桜の下で歌会を催したところとして知られています。同庭園も義景館跡庭園と同様に、足利義秋(義昭)の御成りに備えて急きょ造られたと考えられています。
同庭園は敷地の東南山裾に造られています。立石を中心とした石組は湯殿跡庭園に近いとも。一方では石の積み方が諏訪館跡庭園に酷似しているともいわれていますが、滝添石に挟まれた3段の滝石組など、全体として力強い石組に特徴があるようです。また、滝石組の付近が周辺の地面より高くなっており、水を引くのが難しいとみられることから、もともと庭池は枯池だったと考えられています。
ところで、南陽寺は建設時期が少なくとも3時期あるといわれていますが、越前朝倉氏の租、広景の孫に当たる氏景の妻・天心清祐が応永11年(1404)に創建したとされ、義景が歌会を催した頃の南陽寺は、3代貞景が娘の良玉のために再興したと伝えられています。一方、南陽寺跡庭園は、古い時期の礎石などを埋めて造られた最も新しい時期のものと考えられています。
中の御殿跡庭園に戦国時代の水洗トイレ?
義景館跡の南方高台にある中の御殿跡は、義景の実母光徳院の館と伝えられています。北側は空濠、西側は急斜面、東側から南側にかけては崖の上にさらに土塁が築かれており、堅固な構えの屋敷に特徴があります。このため、当初は当主の館の一部であったとの見方もあるようです。
中の御殿跡庭園は、園池の広さが約70平方m、深さ約20cm、池の周囲には庭石が10個残っているものの、石組らしきものはみられないという。溝底と池底の高低差が小さいことから、滝を造ることが難しいとされ、平面的な平庭に近い林泉式庭園だったと考えられています。
中の御殿跡では、トイレとみられる石積が発掘されているようです。それも、尿が雨水と一緒に館の外へ流れ出る、水洗便所を想定させるようなものらしい。ただ、これらの石積については、ゴミ溜説など石積がトイレと言い切れない事例も若干あるため、トイレと断定するには至っていないようです。
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